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慶応長崎事件 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました [幕末]

「慶応長崎事件」は司馬遼太郎の短編集「馬上少年過ぐ」に収録されている短編です。

舞台は長崎。坂本竜馬が薩土秘密同盟の協議をするため京都に居たころ海援隊隊士である菅野覚兵衛があるきっかけで英国水兵二人を斬殺してしまうことから始まる物語です。

海援隊隊長である坂本竜馬は英国との関係を悪化させないために方々に根回しし英国との関係悪化を防止するのですが決して表舞台に出ないところが竜馬らしいという感じです。(表に出れない身分だっただけ?)

「慶応長崎事件」の内容(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の登場人物(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の主な年号(司馬遼太郎)

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慶応長崎事件 【内容】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

「慶応長崎事件」の内容です。(結末まで書いてあるので結末を知りたくない方はこれ以降は読まない方が良いかと思います

慶応長崎事件 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「慶応長崎事件」の内容(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の登場人物(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の主な年号(司馬遼太郎)

舞台は幕末、慶応三年七月六日。

長崎港に英国軍艦イカレス号が停泊中。乗務員達は市中で毎日のように事件・事故を起こしていた。

海援隊士菅野覚兵衛と佐々木栄は長崎の崇福寺でイカレス号水兵二人が中国服の娘に抱きついている現場に居合わせた。

菅野覚兵衛は水兵を大渇し娘を助ける。水兵は立ち去り際に菅野に短筒(ピストル)を発砲し菅野の顔をかすめた。

菅野らは夜半までに海援隊汽船「横笛丸」に戻らなければいけない義務があったが帰る気になれず丸山の遊里に向かう。

なじみの小料理屋で朱の下緒の若い武士に声を掛けられ若い武士の連れと共に酒を共にする。

第十字(午後十時)、四人の武士は路上に出て帰路に立つ。

帰路、思案橋にある二人の英国水兵に気づく。

酔っていたため、菅野、佐々木の記憶はそれ以降あいまいである。

英国水兵二人も酔っていた。水兵は殺気に気づき発砲するがすでに斬られていた。

そして朱の下緒の武士は二人にとどめを刺す。

【補足】ここでは菅野が水兵を斬り、朱の下緒の武士がとどめを刺したことになっている。

四人の武士はそこから逃げた。

菅野覚兵衛と佐々木栄は長崎港南岸にある海援隊本部に戻る。菅野はそこにいた岩崎弥太郎に右袖の血を問われるが釣りをしていたときの魚の血であると答えた。岩崎は信じていない。

その後横笛丸に移り、港を出る。時を同じくして土佐藩船「若紫」も横笛丸を追うようにして出港した。

菅野に前夜の記憶が蘇ってきたが英国水兵を斬ったかどうかは定かではない。佐々木に問うと「斬った」と答えたがそのときの詳細は不明瞭で佐々木も記憶が定かではないらしい。

ただ逃げる際に福岡藩士(朱の下緒の武士)と金打(きんちょう)したことははっきり覚えているらしい。菅野はあの朱の下緒の武士が福岡藩士であることは知らなかった。(覚えていなかった)

菅野は隊長である坂本竜馬に相談したかったが、坂本はそのころ薩土秘密同盟を協議するため京にいた。

英国水兵の斬殺事件は長崎奉行から英国領事に伝えられた。双方での調査により土佐藩海援隊士に容疑がかかる。

付近で海援隊制服の目撃者が多かった。それに事件発生後に海援隊汽船「横笛丸」と土佐藩船「若紫」が出航していることも知られた。

これら要因が状況証拠となった。

駐日英国公使ハリー・パークスは事件に激怒しアーネスト・サトーと共に大阪城の老中板倉に犯人検挙を迫る。

幕府大目付に呼び出された佐々木三四郎(土佐藩京都詰め大監察)は大阪にいる西郷吉之助を訪ねた。薩摩は生麦事件、薩英戦争などで外国人との交渉に馴れているはずなのでその折衝について尋ねるためである。

西郷はアーネスト・サトーと交流があり彼から今回の事件について聞いていた。西郷は佐々木を丁重すぎるほど親切に応接した。

西郷はこれを機に、土佐藩を藩ぐるみで倒幕勢力に引き入れたかったのである。(土佐藩は上層部は佐幕派、下層部は討幕派の状態)

佐々木らは閣老らを訪問し今回の事件について土佐藩に疑いが掛かっていることを問われるが強くそれを否定した。

海援隊隊長である坂本竜馬が今回の事件を知ったのは七月二十八日と遅かった。大阪越前藩邸にて松平春嶽から聞いた。

『まずい時期にやりやがった』と坂本は思った。この時期に英国と問題を起こす訳にはいかなかった。

それは討幕のさいには英国商人グラバーから軍器、弾薬を購入する予定だったこと。そしてフランスが幕府側につくことを英国の外交によって抑えて欲しかったからだった。

そして松平春嶽からパークスが土佐高知城に乗り込もうとしていることも知った。すなわち土佐藩老公山内容堂(やまうちようどう)と怒鳴り屋パークスが対峙するということである。

何も起きない訳が無い状態である。坂本は両者の掴み合いの場面さえ脳裏に描いた。

そして坂本はこれを穏便にすませるよう松平春嶽から山内容堂宛てに手紙を書いてもらい事の重大さを警報してもらうことにした。

【補足】この手紙がおもしろいらしいが詳しい内容はここには載っていない

坂本はこの手紙を持って兵庫から土佐藩船「三国丸」で土佐に向かった。

そして竜馬、幕吏、パークス、サトーらが続々と土佐に入港する。

山内容堂は松平春嶽からの手紙によりこの意を受け止め、すべてを後藤象二郎にまかせることにした。

英国人が入港したことを知った土佐郷士は高知城に集まった。そして乾退助(板垣退助)は戦闘警備の指揮をとっていた。そしてこれを見た英国軍艦も戦闘準備を進めていた。

そんな中、坂本竜馬は藩の代表である後藤象二郎と夕顔丸船内で会談しパークスとの交渉について教育した。

それは、
・卑屈な態度を見せないこと
・今回の事件に関してたとえ証拠が出てきても土佐藩に関わりが無いことを貫くこと
・これを機に土佐藩は日本改革をし、英国を手本に議会制度を目指していることを伝えること
・そしてそれには英国の助言が要ることを伝える

という内容であった。

八月七日朝、夕顔丸船長室で正式談判が行われた。ここでは英国側の「犯人は土佐藩士である」という主張と土佐藩側の「それはいいがかりである」という押し問答が続き、ここでの決着はつかず、現地で調査を行うことに決した。

この談判のあと後藤象二郎は英国軍艦を訪れ、議会制度を参考にした政体を考えていることやその他さまざまなことを語る。これを見たパークスは後藤象二郎に惚れ込んでしまったらしい。

長崎の現地調査には英国からはアーネスト・サトー、土佐藩からは大監察佐々木三四郎らが、幕府からは平山図書頭が行くことになる。

八月十八日に長崎奉行所で取調べが行われる。このときの登場人物は

長崎奉行:能勢大隈守、徳永石見守(いわみのもり)
幕閣:平山図書頭守以下
英国:アーネスト・サトー
土佐藩:佐々木三四郎以下九人
海援隊:坂本竜馬、渡辺剛八、中島作太郎、石田英吉

長崎奉行はこの件に関して海援隊の心証を悪くしたくなかった。
ここでの取調べは進展せずに終わり、菅野、佐々木を鹿児島から呼び戻すことになった。

菅野覚兵衛と佐々木栄は鹿児島から長崎に戻る。小曾根の海援隊本部では坂本竜馬が待っていた。坂本竜馬は二人に事件のあった夜のことを聞いた。しかし二人の記憶はあくまでも曖昧である。竜馬は二人の記憶の曖昧さを彼ら自ら認識させ、あの夜のことは夢であると言い聞かせた。

菅野覚兵衛と佐々木栄は長崎奉行所では容疑を一切否定した。長崎奉行はこの二人への取調べについてこれ以上何もできず「事件処理」の形式だけはとることにする。

九月七日。長崎奉行所から菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八、橋本久丈夫に対し出頭すべしとの知らせが届いたため四人は長崎奉行所に出頭した。

四人に対して言い渡された判決は「恐れ入れ」であった。これは「恐れ入りました」と平伏するだけでよい判決である。

これを言い渡された佐々木栄は真っ先に「恐れ入りました」と平伏したが、菅野覚兵衛は恐れ入る理由が無いと言い平伏しないどころか奉行に食って掛かってしまった。その日は奉行所泊めとなる。

同日岩崎弥太郎(土佐藩の長崎における土佐商会の管理と海援隊会計方を兼ねる)は奉行所に呼び出され「取締不念」を理由に「恐れ入れ」を命ぜられた。岩崎弥太郎はすぐさま平伏した。

菅野、渡辺、橋本は徹夜の説得にも折れず十日の朝を迎えた。そしてついに「御構(おかまい)いなし」となった。これは完全に無罪判決である。

「御構いなし」となった菅野、渡辺、橋本は「恐れ入った」岩崎弥太郎をいじめた。海援隊からの金の融通を謝絶していた岩崎弥太郎に三人は良い感情を持っていなかったためこの機会にいじめたようである。

この事件は明治政府になってからパークスの執拗な抗議により再調査され、事件内容が明らかになった。

下手人は福岡藩士の金子才吉。朱の下緒の武士である。金子才吉は二人の水兵を斬り、旅宿に戻ってから酔いが覚めたところで藩への迷惑を恐れ切腹していた。

「恐れ入った」岩崎弥太郎はその後海運業をおこし、三井財閥の基礎を作った人物である。

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慶応長崎事件 【主な登場人物】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

慶応長崎事件に登場する主な登場人物です。

慶応長崎事件 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「慶応長崎事件」の内容(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の登場人物(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の主な年号(司馬遼太郎)

菅野覚兵衛
海援隊士

佐々木栄(さかえ)
海援隊士
海援隊測量官

ロバート・フォード
英国水兵
思案橋にて海援隊士に斬られる

ジョン・ホゥチングス
英国水兵
思案橋にて海援隊士に斬られる

金子才吉
福岡藩士
丸山の遊里で菅野覚兵衛、佐々木栄に声を掛け酒を共にする

坂本竜馬
土佐藩
海援隊隊長
勝塾(神戸海軍操練所)の塾頭
神戸海軍操練所閉鎖後、長崎で亀山社中を作る


勝海舟
幕府の軍艦奉行
神戸に勝塾(神戸海軍操練所)をひらく

陸奥陽之助(宗光)
紀州脱藩
勝塾(神戸海軍操練所)の練習生

伊東祐亨(すけゆき)
勝塾(神戸海軍操練所)の練習生
日清戦争の総督

岩崎弥太郎
土佐藩から派遣されている出崎官
会計方
三井財閥の基礎を作った人物

南海太郎朝尊(ともたか)
新刀期の土佐における代表的か鍛冶
菅野覚兵衛は南海太郎朝尊の銘の差料を所持していた(望月亀弥太が所持していてものを池田屋事件後譲り受ける)

望月亀弥太(もちづきかめやた)
菅野覚兵衛とは神戸海軍操練所での同士
池田屋事件で闘死(逃走後自ら切腹)

望月団右衛門
望月亀弥太の父


大柳俊八
会津藩が京都守護職着任の際に江戸で新規に召抱えた剣客
池田屋事件で望月亀弥太に斬られ数日後に絶命

五十嵐(いがらし)虎之助
会津藩が京都守護職着任の際に江戸で新規に召抱えた剣客
池田屋事件で望月亀弥太に斬られ数日後に絶命

能勢大隈守(のせおおすみのかみ)頼之
幕府の長崎奉行
英国水兵斬殺事件について英国の長崎領事に伝える

フローエルス
英国の長崎領事
長崎奉行から英国水兵斬殺事件について伝えられる

アーネスト・サトー
ロンドン生まれ
文久二年に横浜に着任
時勢感覚に鋭敏な青年
慶応長崎事件の処理にあたった

ロコック・ミットフォート
慶応三年当時の英国公使館書記官
アーネスト・サトーを好評価していた

ハリー・パークス
駐日英国公使
極端な短期物
福州、上海、広東の領事館を歴任
中国では恫喝外交で上をあげる

永井玄蕃頭(げんばのかみ)尚志
幕府大目付

森多司馬
土佐藩京都藩邸留守居役

佐々木三四郎(高之(たかゆき))
土佐藩京都詰め大監察
「佐々木老候昔日談」を残す
長崎での現地調査に参加する

由比猪内
土佐藩京都詰め大監察

毛利恭助
土佐藩京都詰め小監察

松平春嶽
越前福井藩主

山内容堂
土佐藩老公
松平春嶽からこの事件について手紙をもらいそれを受け入れる

後藤象二郎
土佐藩参政
パークスとの交渉を行う

乾退助(板垣退助)
パークス入港後に高知城下で戦闘警備の指揮をとる

山田喜久馬(きくま)、山地忠七、祖父江(そふえ)可成、高屋佐兵衛、渡辺玄蕃、片岡健吉、箕浦(みのうら)猪之吉
パークス入港後に高知城下で戦闘警備に着く。戊辰戦争で板垣退助指揮のもとに活躍する

ケッペル提督
土佐入港の際に英国軍艦に乗船

石田英吉
土佐藩脱藩
海援隊隊士
坂本竜馬の子飼いの壮士

大隈八太郎(大隈重信)
肥前藩士
外国事務局判事
パークスの執拗な抗議により明治元年八月にこの事件の再調査を行う

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慶応長崎事件 【主な年号(日付】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

慶応長崎事件に登場する主な年号(日付)です。

慶応長崎事件 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「慶応長崎事件」の内容(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の登場人物(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の主な年号(司馬遼太郎)


元治元年六月五日
池田屋ノ変

元治元年十月
勝海舟が神戸で不逞浪士を養っているとして謹慎を命ぜられる



慶応三年七月六日
海援隊隊士菅野覚兵衛と佐々木栄が英国水兵を斬殺する

慶応三年六月九日
坂本竜馬は土佐藩船夕顔丸で長崎を出港

慶応三年六月十一日
坂本竜馬、兵庫入港

慶応三年六月十四日
坂本竜馬、京都に入り「酢屋」に投宿

慶応三年六月二十二日
坂本竜馬、京都の小松帯刀邸で薩土秘密同盟を協議(薩摩藩西郷吉之助、土佐藩後藤象二郎、土佐藩福岡孝悌、土佐藩中岡慎太郎)

慶応三年六月二十六日
坂本竜馬が始めて西郷隆盛に大政奉還案を持ちかける

慶応三年七月二十八日
事件について幕府から土佐藩に正式連絡がある
坂本竜馬は松平春嶽から今回の事件を初めて聞く

慶応三年八月二日
松平春嶽から山内容堂宛ての手紙を持った坂本竜馬が土佐に入る

慶応三年八月三日
幕府軍艦回天丸が土佐に入港

慶応三年八月五日
幕吏を乗せた幕艦が土佐に入港

慶応三年八月六日
英国公使パークス、通訳官アーネスト・サトーを乗せた英国軍艦が土佐に入港

慶応三年八月七日朝
英国と土佐藩の正式談判が土佐藩夕顔丸船長室で行われる

慶応三年八月十八日
長崎奉行所にて取調べが行われる

慶応三年九月七日
長崎奉行所から海援隊本部に差紙を寄越

慶応三年九月十日朝
「御構いなし」

慶応三年十二月十二日(陽暦)夜十二時ころ
アーネストサトーが軍艦コケット号にて江戸に向かう

明治元年八月
パークスの執拗な抗議により大隈重信により再調査される

明治四年正月二十八日付け
パークスが山内容堂に英文の詫び状を送る
(土佐藩に嫌疑をかけたことを後悔したため)

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英雄児 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました [幕末]

「英雄児」は司馬遼太郎の短編集「馬上少年過ぐ」に収録されている短編です。

主人公は幕末期の越後長岡藩家老である河井継之助。江戸の「久敬舎」での日々と北陸戦争が主な舞台となっています。

河井継之助といえば戊辰戦争で「武力中立」の立場をとり官軍と戦い大いに奮闘したことが有名ですが、この英雄児では「なぜ河井継之助は官軍相手に無謀にもこのような行動がとれたのか」が簡潔にまとまっています。

司馬遼太郎はこの物語の中で小さな藩でしか活躍の場が無かった「英雄」の悲運を伝えたかったのではないかなという感想を持ちました。

司馬遼太郎には河井継之助を描いた長編「峠」もあるので是非とも読んでみたいと思います。

忘れないように内容、登場人物、主な年号(日付)をまとめてみました。

「英雄児」の内容(司馬遼太郎)
「英雄児」の登場人物(司馬遼太郎)
「英雄児」の主な年号(日付)(司馬遼太郎)


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英雄児 【内容】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

「英雄児」の内容です。(結末まで書いてあるので結末を知りたくない方はこれ以降は読まない方が良いかと思います

英雄児 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「英雄児」の内容(司馬遼太郎)
「英雄児」の登場人物(司馬遼太郎)
「英雄児」の主な年号(日付)(司馬遼太郎)

この物語は河井継之助(つぎのすけ)と江戸の久敬舎(きゅうけいしゃ)で席を共にした鈴木虎太郎が残した無隠居士遺談を中心にした物語である。

鈴木虎太郎は安政六年、十六歳のときに伊勢国津から江戸に出て古賀茶渓(さけい)の塾「久敬舎」に入塾する。居士号を「無隠」といった。(明治三十二年没)

河井継之助はこれ以前にも斉藤拙堂(せつどう)、佐久間象山(ぞうざん)の門人でもあった。

継之助は久敬舎で古賀茶渓の教えを得るのが目的では無く本当の目的は久敬舎の書庫で発見した「李忠定(りちゅうてい)公集」に感銘しこれを読むことにあった。継之助は久敬舎に在塾していた十ヶ月でその全てを筆写していた。

河井継之助は安政六年六月に久敬舎を退塾し備中松山藩の参政である山田方山(ほうこく)に入門する。

山田方山(山田安五郎)は備中松山藩の財務官、郡奉行(こおりぶぎょう)、参政に就き藩財政を豊かにし藩政改革家として高名な人物であった。

継之助は山田方山が開拓作業の指導を行っていた西方村長瀬で約一年過ごす。

備中松山藩滞在中の約三年の間に長州藩、佐賀藩といった西国諸藩も見学する。

ともに近代産業国家となっていた諸藩の様子を見て、北陸・関東・東北諸藩との貧富の差を知り、いつか西国諸藩が武力で東国、北国を圧倒するのではないかとの予感を抱いた。

継之助は万延元年に山田方山の元を去り再度久敬舎に入塾し文久元年まで過ごしその後、越後長岡に戻る。


文久二年八月二十四日に藩公牧野忠恭(ただゆき)が京都所司代を命ぜられ、翌月二十九日に京都に入った。継之助はこれを知るとすぐさま京都にいき藩公牧野忠恭に京都所司代の辞任を訴えた。

情勢が悪化している京都を鎮護するのはたかだか七万四千石の実力では不可能であることを訴える。

藩公牧野忠恭は継之助の意見を聞き入れ翌年七月に京都所司代を辞任し長岡に戻る。

しかし幕府は牧野忠恭に老中いいわたす。継之助は老中着任による出費はさけるべきであり富国強兵が大事であることを訴えるが牧野忠恭はこれを退け江戸へ出る。

忠恭は江戸に着任後すぐに継之助を御用人兼公用人に抜擢をする。

継之助は江戸に着任後毎日、老中の辞職を勧め長岡藩の富国強兵を訴え続ける。そしてそれが日本のためになることということを説く。

その後忠恭はこれを受け入れ辞職する。

長岡に戻った牧野忠恭は継之助に今後の藩政方針を聞く。牧野忠恭はてっきり兵備の洋式化を訴えるのかと思いきや継之助は藩財政を豊かにすることの重要性を説く。兵備の洋式化は藩財政が豊かになった後のことであることも伝える。

長岡藩の表高は七万四千石であるが実収は二十万石となる。しかし出費が多く藩財政は苦しい状態であった。

継之助は郡奉行(こおりぶぎょう)、翌慶応二年には町奉行を兼務、慶応三年には年寄役に就き藩財政を立ち直す。

慶応三年暮れには藩庫には九万九千九百六十余両という多くの余剰金を作ることとなった。

備中松山藩で山田方山と過ごしたことがここで実を結ぶ。

河合継之助は慶応四年には長岡藩の独裁者となった。

慶応四年正月、鳥羽伏見の戦い
二月、徳川討伐の勅令がくだる
三月、東征大総督が駿府(すんぷ)入城
四月、江戸城接収
閏四月、豊臣秀吉の神号復活

このような情勢にも河合継之助は「時勢がかわった」という認識は無くこれらは全て薩長の陰謀であるとし「朝廷を中心とした統一国家をつくる」という政治概念を理解出来ていなかった。

継之助は横浜が薩長に押さえられる前に横浜に急ぎ洋式兵器を大量に購入する。

継之助はオランダ商人エドワード・スネルから安価なエミュー銃を大量に購入し、高価なエンフィールド銃も購入する。そして四斤山砲も数門注文した。

それ洋式兵器は後日数度にわたり新潟に運ばれた。その中には米国の南北戦争末期に使用された速射砲二門も含まれている。一門五千両である(藩ではガットリング・ガンと呼んでいた)。

ちなみに会津藩がスネルから購入した兵器の額は七千二十弗(ドル)、米沢藩は五万六千二百五十弗、庄内藩は五万二千百三十一弗。長岡藩はそれらよりも多い額を支払っていた。

継之助は軍制を洋式にし猛訓練を行った。家中のものも継之助を信頼しそれに従いわずか四年の間に長岡藩を洋式武装藩とした。

慶応四年三月七日、官軍の北陸道鎮撫総督が越後高田に入る。

越後は十一藩に分割されているが官軍に随順していないのは長岡藩のみ。

継之助は薩長を偽官軍と見ており四月十七日朝八時、藩士にそれを訓示し徳川三百年の恩に酬いることを伝える。

しかし奥羽連盟に加盟して会津藩などと共闘はせずに「武力中立」を表明する。

司馬遼太郎はここで『このあたりが継之助の限界というべきものであった』と説明する。

薩長は新しい政府を、会津は徳川を中心とする幕府の再建を目指していた。これは共に日本国家を見据えての行動である。

しかし継之助は長岡一藩のみを考え、これを最後の義藩にすることのみを目指している。

継之助は当時、陸軍装備として世界的水準であろう洋式兵器をもてばあわよくば薩長を滅ぼせると信じていた。というか米式速射砲、仏式後装砲が継之助の頭脳とは別な思考を作りそれを信じさせていた。

官軍は岩村精一郎(高俊)率いる海道軍、三好軍太郎率いる山道軍を進める。山道軍には参謀黒田了介(清隆)、山県狂介(有朋(ありとも))が参加している。

継之助は五月二日、官軍本営のある小千谷(おじや)に向かう。そして慈眼寺(じげんじ)にて官軍と会談を持った。

目的は徳川討伐の中止を訴えることにある。そして継之助は会津との間に立ち調停役を進み出る。嘆願というよりは脅し、挑戦状に近い訴え方をする。継之助は日本随一の軍備を持っていることに自信を持ってこの行動を起こした。

当然、官軍はこの訴え(嘆願)を受け入れずこの会談を三十分で打ち切ってしまう。

このとき継之助と会談したのは総大将の軍監岩村精一郎(土佐藩出身)。会談後、継之助を抑留などせずに自軍へ返してしまう。「北越に河井継之助あり」としられていた継之助を知らなかったからである。

継之助は会津、桑名、旧幕臣とともに五月四日、諸隊を進発させ各地で勝利を挙げる。参謀山県狂介は会談の際に継之助を抑留しなかったことを岩村に叱る。

長岡軍は戦いを有利に進めていたが官軍にふいをつかれ城を奪われ五月十九日に落城する。しかし六月二日に今町の官軍本拠を攻め込み入城。七月二十五日には城を取り戻すことに成功する。

この今町での戦闘では長岡軍の砲弾により市民が巻き込まれ多数の死者を出した。

城を回復した長岡軍ではあるがこれまでの戦闘により継之助は左足膝下に傷を負い指揮をとることが出来なくなっていた。

これにより長岡軍の士気は衰え七月二十九日、再び官軍に城を奪われる。そして八月十六日河井継之助は死んだ。死因は左足膝下傷口の濃毒(のうどく)。これにより長岡藩の抵抗は終わりを迎えた。

維新後、継之助の墓碑(栄涼寺)は度々砕かれることがあった。それは戦火で死者となった者の遺族によるものだったという。

無隠は晩年これを見つけては修理を行った。そして無隠は言う

『あの男の罪ではない。あの男にしては藩が小さすぎたのだ』

そして司馬遼太郎はこの物語をこう〆た
『英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。』
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英雄児 【主な年号(日付】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

英雄児に登場する主な年号(日付)です。

英雄児 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「英雄児」の内容(司馬遼太郎)
「英雄児」の登場人物(司馬遼太郎)
「英雄児」の主な年号(日付)(司馬遼太郎)

安政六年
無隠(鈴木虎太郎)は「久敬舎」に入塾

安政六年六月
河井継之助は「久敬舎」を退塾

万延元年の初夏
河井継之助は山田方谷の元を去る

文久元年
河井継之助は越後長岡に帰る

文久二年八月二十四日
長岡藩主牧野忠恭(ただやす)が京都所司代に命ぜられる

文久二年九月十五日
牧野忠恭が京都を目指し長岡を発つ

文久二年九月二十九日
牧野忠恭が京都の役宅に入る

文久三年七月
牧野忠恭が京都所司代を辞任し長岡に戻る

慶応二年
町奉行を兼務(既に郡奉行)

慶応三年
年寄役を兼務

慶応四年(明治元年)
家老となる

慶応四年一月
鳥羽伏見の戦い

慶応四年二月
徳川討伐の詔勅が下る

慶応四年三月
東征大総督が駿府(すんぷ)入城

慶応四年三月七日
官軍の北陸道鎮撫総督が越後高田に入る

慶応四年四月
江戸城接収

慶応四年四月十七日八時
北陸道鎮撫隊を薩長の偽官軍であることを藩士に訓示する

慶応四年(明治元年)閏四月
執政(筆頭家老)に昇格
豊臣秀吉の神号が復活

慶応四年閏四月二十一日
官軍両部隊が高田を出発

慶応四年五月一日
使者を小千谷(おじや)の官軍本営に送る

慶応四年五月二日
官軍と会談を持つため長岡を出発する

慶応四年五月四日
諸隊を進発

慶応四年五月十一日
長岡、会津軍は榎峠を陥(おと)す

慶応四年五月十三日
旭山の戦闘で官軍を破る

慶応四年五月十五日
海道方面担当の官軍部隊が出雲崎(いずもざき)に入る

慶応四年五月十九日
長岡城落城

慶応四年五月二十日
栃尾退却

慶応四年五月二十一日
加茂に前進

慶応四年六月二日
今町の官軍本拠に攻め込み大手門を破り入城

慶応四年七月二十五日
城から官軍を追うことに成功する

慶応四年七月二十九日
官軍に長岡城をふたたび奪われる

慶応四年八月十六日
濃毒のため死ぬ

明治二年
新政府により河井継之助の家名断絶の令建がある

明治十六年
家名再興の恩典がある

明治二十七年
おすがは札幌にて死ぬ

明治三十二年
無隠(鈴木虎太郎)没
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英雄児 【登場人物】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

英雄児 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「英雄児」の内容(司馬遼太郎)
「英雄児」の登場人物(司馬遼太郎)
「英雄児」の主な年号(日付)(司馬遼太郎)

英雄児の登場人物です

河井継之助
  • 幕末期の越後長岡藩家老。
  • 号は蒼龍窟。
  • 町奉行、郡奉行、年寄役、家老を歴任。
  • 数々の藩政改革を行い苦しかった藩財政を豊かにしそれを元手に西洋兵器を購入し長岡藩を洋式武装藩とする。
  • 戊辰戦争(北陸戦争)では官軍に随順せず、奥羽攻守同盟にも加盟せず「武力中立」の立場をとり官軍と戦い大いに奮戦する(鄭州的には会津、桑名、旧幕臣と共闘)がこの戦いで追った傷の濃毒により死亡する。
古賀茶渓(さけい)
  • 幕府の儒官
  • 蕃書調書(ばんしょしらべしょ)の頭取を務める
  • 江戸で「久敬舎(きゅうけいしゃ)」という私塾を開く。
  • 古賀精里(せいり)の孫
  • 久敬舎には河井継之助が入塾していた
鈴木虎太郎
  • 居士号は無隠
  • 明治三十二年没
  • 「久敬舎」で河井継之助と臨席となる
  • 「英雄児」は無隠居士遺談に追うところが多い
斉藤拙堂(せつどう)
  • 河井継之助が門人となっていた
佐久間象山(ぞうざん)
  • 河井継之助が門人となっていた
三浦治部平(じぶへい)
  • 河井継之助の幼少時に馬術を教える
鬼頭六左衛門
  • 河井継之助の幼少時に剣術を教える
代右衛門
  • 河井継之助の父
お貞
  • 河井継之助の母
おすが
  • 河井継之助の妻
  • 十六で継之助と結婚する(継之助は二十三)
李忠定(りちゅうてい)
  • 宋朝末期の名臣。河井継之助は「李忠定公集」に感銘する
土田衡平
  • 久敬舎の劣等生
  • 天誅組(てんちゅうぐみ)の首領藤本鉄石に師事する
  • 筑波ノ乱に参加。幕吏に斬られる
山田方谷(ほうこく):山田安五郎
  • 備中松山藩の参政。藩政改革家として有名
  • 財務官、郡奉行(こおりぶぎょう)、参政を歴任し藩財政を豊かにする
板倉周防守(すおうのかみ)
  • 備中松山藩主
梛野嘉兵衛(なぎのかへえ)
  • 河井継之助の義兄(妻おすがの兄)
牧野忠恭(ただやす)
  • 長岡藩主
三間(みま)安右衛門
  • 長岡藩参政
牧野貞明
  • 長岡藩支藩常州笠間(かさま)の領主
  • 牧野忠恭が京都所司代を辞任したさいに辞任の非を説く
牧野康成
  • 長岡藩の家祖
  • 徳川十七将の一人
牧野忠成
  • 長岡藩の藩祖
  • 三河牛久保(うしくぼ)城主
エドワード・スネル
  • スイス生まれオランダ国籍の商人
  • 横浜で河井継之助に大量を兵器を販売する
佐川官兵衛
  • 会津藩士
  • 長岡藩に奥羽攻守同盟への参加を強談する
古屋作左衛門
  • 幕府の衝鋒隊長
  • 歩兵を率いて新潟に着陣し市内を騒擾(そうじょう)する
岩村精一郎(高俊)
  • 官軍の軍監
三好軍太郎
  • 官軍の軍監。長州藩士
黒田了介(清隆)
  • 三好軍太郎率いる部隊と行動を主にする
山形狂介(有朋)
  • 三好軍太郎率いる部隊と行動を主にする
岩村精一郎
  • 土佐藩宿毛(すくも)出身の軍監
  • 維新後、佐賀県令、鹿児島県令、農商務大臣を歴任
  • 別段の才は無い
  • 河井継之助との会談を行う
時山直八
  • 官軍司令官
  • 旭山の戦闘で戦死
二階堂保則
  • 官軍士官

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読書メモを始めてみます [お知らせ]

2年ほど前から急に歴史小説、時代小説にはまって以来、司馬遼太郎ものを中心に色々と読んできましたが時間が過ぎていくと結構内容を忘れてしまったり、「あの話ってどの本に出てきたのかなー」ということが多くなってきたので読んできた本の内容をメモしていこうと思います。
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