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英雄児 【内容】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

「英雄児」の内容です。(結末まで書いてあるので結末を知りたくない方はこれ以降は読まない方が良いかと思います

英雄児 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「英雄児」の内容(司馬遼太郎)
「英雄児」の登場人物(司馬遼太郎)
「英雄児」の主な年号(日付)(司馬遼太郎)

この物語は河井継之助(つぎのすけ)と江戸の久敬舎(きゅうけいしゃ)で席を共にした鈴木虎太郎が残した無隠居士遺談を中心にした物語である。

鈴木虎太郎は安政六年、十六歳のときに伊勢国津から江戸に出て古賀茶渓(さけい)の塾「久敬舎」に入塾する。居士号を「無隠」といった。(明治三十二年没)

河井継之助はこれ以前にも斉藤拙堂(せつどう)、佐久間象山(ぞうざん)の門人でもあった。

継之助は久敬舎で古賀茶渓の教えを得るのが目的では無く本当の目的は久敬舎の書庫で発見した「李忠定(りちゅうてい)公集」に感銘しこれを読むことにあった。継之助は久敬舎に在塾していた十ヶ月でその全てを筆写していた。

河井継之助は安政六年六月に久敬舎を退塾し備中松山藩の参政である山田方山(ほうこく)に入門する。

山田方山(山田安五郎)は備中松山藩の財務官、郡奉行(こおりぶぎょう)、参政に就き藩財政を豊かにし藩政改革家として高名な人物であった。

継之助は山田方山が開拓作業の指導を行っていた西方村長瀬で約一年過ごす。

備中松山藩滞在中の約三年の間に長州藩、佐賀藩といった西国諸藩も見学する。

ともに近代産業国家となっていた諸藩の様子を見て、北陸・関東・東北諸藩との貧富の差を知り、いつか西国諸藩が武力で東国、北国を圧倒するのではないかとの予感を抱いた。

継之助は万延元年に山田方山の元を去り再度久敬舎に入塾し文久元年まで過ごしその後、越後長岡に戻る。


文久二年八月二十四日に藩公牧野忠恭(ただゆき)が京都所司代を命ぜられ、翌月二十九日に京都に入った。継之助はこれを知るとすぐさま京都にいき藩公牧野忠恭に京都所司代の辞任を訴えた。

情勢が悪化している京都を鎮護するのはたかだか七万四千石の実力では不可能であることを訴える。

藩公牧野忠恭は継之助の意見を聞き入れ翌年七月に京都所司代を辞任し長岡に戻る。

しかし幕府は牧野忠恭に老中いいわたす。継之助は老中着任による出費はさけるべきであり富国強兵が大事であることを訴えるが牧野忠恭はこれを退け江戸へ出る。

忠恭は江戸に着任後すぐに継之助を御用人兼公用人に抜擢をする。

継之助は江戸に着任後毎日、老中の辞職を勧め長岡藩の富国強兵を訴え続ける。そしてそれが日本のためになることということを説く。

その後忠恭はこれを受け入れ辞職する。

長岡に戻った牧野忠恭は継之助に今後の藩政方針を聞く。牧野忠恭はてっきり兵備の洋式化を訴えるのかと思いきや継之助は藩財政を豊かにすることの重要性を説く。兵備の洋式化は藩財政が豊かになった後のことであることも伝える。

長岡藩の表高は七万四千石であるが実収は二十万石となる。しかし出費が多く藩財政は苦しい状態であった。

継之助は郡奉行(こおりぶぎょう)、翌慶応二年には町奉行を兼務、慶応三年には年寄役に就き藩財政を立ち直す。

慶応三年暮れには藩庫には九万九千九百六十余両という多くの余剰金を作ることとなった。

備中松山藩で山田方山と過ごしたことがここで実を結ぶ。

河合継之助は慶応四年には長岡藩の独裁者となった。

慶応四年正月、鳥羽伏見の戦い
二月、徳川討伐の勅令がくだる
三月、東征大総督が駿府(すんぷ)入城
四月、江戸城接収
閏四月、豊臣秀吉の神号復活

このような情勢にも河合継之助は「時勢がかわった」という認識は無くこれらは全て薩長の陰謀であるとし「朝廷を中心とした統一国家をつくる」という政治概念を理解出来ていなかった。

継之助は横浜が薩長に押さえられる前に横浜に急ぎ洋式兵器を大量に購入する。

継之助はオランダ商人エドワード・スネルから安価なエミュー銃を大量に購入し、高価なエンフィールド銃も購入する。そして四斤山砲も数門注文した。

それ洋式兵器は後日数度にわたり新潟に運ばれた。その中には米国の南北戦争末期に使用された速射砲二門も含まれている。一門五千両である(藩ではガットリング・ガンと呼んでいた)。

ちなみに会津藩がスネルから購入した兵器の額は七千二十弗(ドル)、米沢藩は五万六千二百五十弗、庄内藩は五万二千百三十一弗。長岡藩はそれらよりも多い額を支払っていた。

継之助は軍制を洋式にし猛訓練を行った。家中のものも継之助を信頼しそれに従いわずか四年の間に長岡藩を洋式武装藩とした。

慶応四年三月七日、官軍の北陸道鎮撫総督が越後高田に入る。

越後は十一藩に分割されているが官軍に随順していないのは長岡藩のみ。

継之助は薩長を偽官軍と見ており四月十七日朝八時、藩士にそれを訓示し徳川三百年の恩に酬いることを伝える。

しかし奥羽連盟に加盟して会津藩などと共闘はせずに「武力中立」を表明する。

司馬遼太郎はここで『このあたりが継之助の限界というべきものであった』と説明する。

薩長は新しい政府を、会津は徳川を中心とする幕府の再建を目指していた。これは共に日本国家を見据えての行動である。

しかし継之助は長岡一藩のみを考え、これを最後の義藩にすることのみを目指している。

継之助は当時、陸軍装備として世界的水準であろう洋式兵器をもてばあわよくば薩長を滅ぼせると信じていた。というか米式速射砲、仏式後装砲が継之助の頭脳とは別な思考を作りそれを信じさせていた。

官軍は岩村精一郎(高俊)率いる海道軍、三好軍太郎率いる山道軍を進める。山道軍には参謀黒田了介(清隆)、山県狂介(有朋(ありとも))が参加している。

継之助は五月二日、官軍本営のある小千谷(おじや)に向かう。そして慈眼寺(じげんじ)にて官軍と会談を持った。

目的は徳川討伐の中止を訴えることにある。そして継之助は会津との間に立ち調停役を進み出る。嘆願というよりは脅し、挑戦状に近い訴え方をする。継之助は日本随一の軍備を持っていることに自信を持ってこの行動を起こした。

当然、官軍はこの訴え(嘆願)を受け入れずこの会談を三十分で打ち切ってしまう。

このとき継之助と会談したのは総大将の軍監岩村精一郎(土佐藩出身)。会談後、継之助を抑留などせずに自軍へ返してしまう。「北越に河井継之助あり」としられていた継之助を知らなかったからである。

継之助は会津、桑名、旧幕臣とともに五月四日、諸隊を進発させ各地で勝利を挙げる。参謀山県狂介は会談の際に継之助を抑留しなかったことを岩村に叱る。

長岡軍は戦いを有利に進めていたが官軍にふいをつかれ城を奪われ五月十九日に落城する。しかし六月二日に今町の官軍本拠を攻め込み入城。七月二十五日には城を取り戻すことに成功する。

この今町での戦闘では長岡軍の砲弾により市民が巻き込まれ多数の死者を出した。

城を回復した長岡軍ではあるがこれまでの戦闘により継之助は左足膝下に傷を負い指揮をとることが出来なくなっていた。

これにより長岡軍の士気は衰え七月二十九日、再び官軍に城を奪われる。そして八月十六日河井継之助は死んだ。死因は左足膝下傷口の濃毒(のうどく)。これにより長岡藩の抵抗は終わりを迎えた。

維新後、継之助の墓碑(栄涼寺)は度々砕かれることがあった。それは戦火で死者となった者の遺族によるものだったという。

無隠は晩年これを見つけては修理を行った。そして無隠は言う

『あの男の罪ではない。あの男にしては藩が小さすぎたのだ』

そして司馬遼太郎はこの物語をこう〆た
『英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。』
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