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慶応長崎事件 【内容】 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎 [幕末]

「慶応長崎事件」の内容です。(結末まで書いてあるので結末を知りたくない方はこれ以降は読まない方が良いかと思います

慶応長崎事件 (馬上少年過ぐ 収録) 司馬遼太郎著 を読みました
「慶応長崎事件」の内容(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の登場人物(司馬遼太郎)
「慶応長崎事件」の主な年号(司馬遼太郎)

舞台は幕末、慶応三年七月六日。

長崎港に英国軍艦イカレス号が停泊中。乗務員達は市中で毎日のように事件・事故を起こしていた。

海援隊士菅野覚兵衛と佐々木栄は長崎の崇福寺でイカレス号水兵二人が中国服の娘に抱きついている現場に居合わせた。

菅野覚兵衛は水兵を大渇し娘を助ける。水兵は立ち去り際に菅野に短筒(ピストル)を発砲し菅野の顔をかすめた。

菅野らは夜半までに海援隊汽船「横笛丸」に戻らなければいけない義務があったが帰る気になれず丸山の遊里に向かう。

なじみの小料理屋で朱の下緒の若い武士に声を掛けられ若い武士の連れと共に酒を共にする。

第十字(午後十時)、四人の武士は路上に出て帰路に立つ。

帰路、思案橋にある二人の英国水兵に気づく。

酔っていたため、菅野、佐々木の記憶はそれ以降あいまいである。

英国水兵二人も酔っていた。水兵は殺気に気づき発砲するがすでに斬られていた。

そして朱の下緒の武士は二人にとどめを刺す。

【補足】ここでは菅野が水兵を斬り、朱の下緒の武士がとどめを刺したことになっている。

四人の武士はそこから逃げた。

菅野覚兵衛と佐々木栄は長崎港南岸にある海援隊本部に戻る。菅野はそこにいた岩崎弥太郎に右袖の血を問われるが釣りをしていたときの魚の血であると答えた。岩崎は信じていない。

その後横笛丸に移り、港を出る。時を同じくして土佐藩船「若紫」も横笛丸を追うようにして出港した。

菅野に前夜の記憶が蘇ってきたが英国水兵を斬ったかどうかは定かではない。佐々木に問うと「斬った」と答えたがそのときの詳細は不明瞭で佐々木も記憶が定かではないらしい。

ただ逃げる際に福岡藩士(朱の下緒の武士)と金打(きんちょう)したことははっきり覚えているらしい。菅野はあの朱の下緒の武士が福岡藩士であることは知らなかった。(覚えていなかった)

菅野は隊長である坂本竜馬に相談したかったが、坂本はそのころ薩土秘密同盟を協議するため京にいた。

英国水兵の斬殺事件は長崎奉行から英国領事に伝えられた。双方での調査により土佐藩海援隊士に容疑がかかる。

付近で海援隊制服の目撃者が多かった。それに事件発生後に海援隊汽船「横笛丸」と土佐藩船「若紫」が出航していることも知られた。

これら要因が状況証拠となった。

駐日英国公使ハリー・パークスは事件に激怒しアーネスト・サトーと共に大阪城の老中板倉に犯人検挙を迫る。

幕府大目付に呼び出された佐々木三四郎(土佐藩京都詰め大監察)は大阪にいる西郷吉之助を訪ねた。薩摩は生麦事件、薩英戦争などで外国人との交渉に馴れているはずなのでその折衝について尋ねるためである。

西郷はアーネスト・サトーと交流があり彼から今回の事件について聞いていた。西郷は佐々木を丁重すぎるほど親切に応接した。

西郷はこれを機に、土佐藩を藩ぐるみで倒幕勢力に引き入れたかったのである。(土佐藩は上層部は佐幕派、下層部は討幕派の状態)

佐々木らは閣老らを訪問し今回の事件について土佐藩に疑いが掛かっていることを問われるが強くそれを否定した。

海援隊隊長である坂本竜馬が今回の事件を知ったのは七月二十八日と遅かった。大阪越前藩邸にて松平春嶽から聞いた。

『まずい時期にやりやがった』と坂本は思った。この時期に英国と問題を起こす訳にはいかなかった。

それは討幕のさいには英国商人グラバーから軍器、弾薬を購入する予定だったこと。そしてフランスが幕府側につくことを英国の外交によって抑えて欲しかったからだった。

そして松平春嶽からパークスが土佐高知城に乗り込もうとしていることも知った。すなわち土佐藩老公山内容堂(やまうちようどう)と怒鳴り屋パークスが対峙するということである。

何も起きない訳が無い状態である。坂本は両者の掴み合いの場面さえ脳裏に描いた。

そして坂本はこれを穏便にすませるよう松平春嶽から山内容堂宛てに手紙を書いてもらい事の重大さを警報してもらうことにした。

【補足】この手紙がおもしろいらしいが詳しい内容はここには載っていない

坂本はこの手紙を持って兵庫から土佐藩船「三国丸」で土佐に向かった。

そして竜馬、幕吏、パークス、サトーらが続々と土佐に入港する。

山内容堂は松平春嶽からの手紙によりこの意を受け止め、すべてを後藤象二郎にまかせることにした。

英国人が入港したことを知った土佐郷士は高知城に集まった。そして乾退助(板垣退助)は戦闘警備の指揮をとっていた。そしてこれを見た英国軍艦も戦闘準備を進めていた。

そんな中、坂本竜馬は藩の代表である後藤象二郎と夕顔丸船内で会談しパークスとの交渉について教育した。

それは、
・卑屈な態度を見せないこと
・今回の事件に関してたとえ証拠が出てきても土佐藩に関わりが無いことを貫くこと
・これを機に土佐藩は日本改革をし、英国を手本に議会制度を目指していることを伝えること
・そしてそれには英国の助言が要ることを伝える

という内容であった。

八月七日朝、夕顔丸船長室で正式談判が行われた。ここでは英国側の「犯人は土佐藩士である」という主張と土佐藩側の「それはいいがかりである」という押し問答が続き、ここでの決着はつかず、現地で調査を行うことに決した。

この談判のあと後藤象二郎は英国軍艦を訪れ、議会制度を参考にした政体を考えていることやその他さまざまなことを語る。これを見たパークスは後藤象二郎に惚れ込んでしまったらしい。

長崎の現地調査には英国からはアーネスト・サトー、土佐藩からは大監察佐々木三四郎らが、幕府からは平山図書頭が行くことになる。

八月十八日に長崎奉行所で取調べが行われる。このときの登場人物は

長崎奉行:能勢大隈守、徳永石見守(いわみのもり)
幕閣:平山図書頭守以下
英国:アーネスト・サトー
土佐藩:佐々木三四郎以下九人
海援隊:坂本竜馬、渡辺剛八、中島作太郎、石田英吉

長崎奉行はこの件に関して海援隊の心証を悪くしたくなかった。
ここでの取調べは進展せずに終わり、菅野、佐々木を鹿児島から呼び戻すことになった。

菅野覚兵衛と佐々木栄は鹿児島から長崎に戻る。小曾根の海援隊本部では坂本竜馬が待っていた。坂本竜馬は二人に事件のあった夜のことを聞いた。しかし二人の記憶はあくまでも曖昧である。竜馬は二人の記憶の曖昧さを彼ら自ら認識させ、あの夜のことは夢であると言い聞かせた。

菅野覚兵衛と佐々木栄は長崎奉行所では容疑を一切否定した。長崎奉行はこの二人への取調べについてこれ以上何もできず「事件処理」の形式だけはとることにする。

九月七日。長崎奉行所から菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八、橋本久丈夫に対し出頭すべしとの知らせが届いたため四人は長崎奉行所に出頭した。

四人に対して言い渡された判決は「恐れ入れ」であった。これは「恐れ入りました」と平伏するだけでよい判決である。

これを言い渡された佐々木栄は真っ先に「恐れ入りました」と平伏したが、菅野覚兵衛は恐れ入る理由が無いと言い平伏しないどころか奉行に食って掛かってしまった。その日は奉行所泊めとなる。

同日岩崎弥太郎(土佐藩の長崎における土佐商会の管理と海援隊会計方を兼ねる)は奉行所に呼び出され「取締不念」を理由に「恐れ入れ」を命ぜられた。岩崎弥太郎はすぐさま平伏した。

菅野、渡辺、橋本は徹夜の説得にも折れず十日の朝を迎えた。そしてついに「御構(おかまい)いなし」となった。これは完全に無罪判決である。

「御構いなし」となった菅野、渡辺、橋本は「恐れ入った」岩崎弥太郎をいじめた。海援隊からの金の融通を謝絶していた岩崎弥太郎に三人は良い感情を持っていなかったためこの機会にいじめたようである。

この事件は明治政府になってからパークスの執拗な抗議により再調査され、事件内容が明らかになった。

下手人は福岡藩士の金子才吉。朱の下緒の武士である。金子才吉は二人の水兵を斬り、旅宿に戻ってから酔いが覚めたところで藩への迷惑を恐れ切腹していた。

「恐れ入った」岩崎弥太郎はその後海運業をおこし、三井財閥の基礎を作った人物である。

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